貴乃花の基本情報
四股名 | 貴乃花 光司 |
本名 | 花田 光司 |
生年月日 | 1972/8/12 |
身長 | 185㎝ |
体重 | 160㎏ |
出身地 | 東京都中野区 |
出身校 | ― |
所属部屋 | 藤島部屋 →二子山部屋 |
得意技 | 右四つ、寄り切り、上手投げ |
初土俵 | 1988年大阪場所 |
十両昇進 | 1989年九州場所 |
初入幕 | 1990年5月場所 |
横綱昇進 | 1995年初場所 |
最終場所 | 2003年初場所 |
通算成績 | 701勝217敗201休 |
受賞歴 | 優勝22回 殊勲賞4回 敢闘賞2回 技能賞3回 |
幕内在位 | 75場所 |
貴乃花の強さについて
正攻法の四つ相撲と誠実な土俵上の態度で大人気!
貴乃花(光司)は、90年代に相撲人気をけん引した平成の大横綱です。
特に兄の若乃花とともに活躍したことで若貴ブームと呼ばれるフィーバーを起こし、千代の富士引退後の角界を引っ張る人気力士でした。
人気だけでなく、その実力もトップクラスであり、右四つからの上手投げや寄り切りを得意としていました。
また、小細工を使わず、真っ向勝負でぶつかり合って相手を組み伏せる正統派のスタイルということもあって、専門家からも高く評価されていました。
「角界のプリンス」の実子として鮮烈デビュー!数々の最年少記録を樹立
貴乃花の父は、角界のプリンスと呼ばれた貴乃花利彰で、幼いころから「パパみたいなお相撲さんになる」という相撲少年でした。(バナナマンの日村さんの誇張された物まねで有名)
小学校時代からわんぱく相撲で全国優勝を果たすなど、その実力は入門前から評価されていました。
そして、満を持して中学卒業後に藤島部屋に入門すると、プロ入り後も前評判以上の実力を見せます。
89年11月場所に17歳2か月で十両昇進最年少記録を打ち立てると、さらにその半年後の90年5月場所で新入幕を達成。(この時は17歳8か月!)
さらには、92年初場所では19歳で幕内で初優勝と、今でも破られていない数々の最年少記録を打ち立てました。
出世スピードが速すぎて、十両昇進時には大銀杏が結えずにちょんまげで土俵入りしたといったエピソードもあります。
巨漢外国人力士との激しい優勝争いを制して22回の優勝を達成
角界入りしてからは順調に出世街道に乗った貴乃花でしたが、初優勝以降はなかなか連続で優勝できず横綱昇進まで2年ほど足踏みすることになりました。
特に90年代は武蔵丸や曙、小錦といった200㎏を超える巨漢外国人力士が群雄割拠しており、特に曙は史上初の外国人横綱に昇進するなど土俵上を席巻していました。
当時の貴乃花も、彼らのパワーに圧倒され、なかなか優勝することができなかったのです。
しかし、こうした巨漢力士としのぎを削ったことで、貴乃花の相撲も磨かれ、94年の九州場所でついに横綱昇進を達成。
横綱昇進後は、96年には4場所連続優勝や全勝優勝を達成するなど、次第に貴乃花が最強の座に君臨。
最終的には22回の優勝を数え、歴代でもトップ6に入る優勝を経験しました。
小泉首相に「感動した!」といわせる感動の優勝を果たすもその代償は大きく…
2000年代に入っても横綱の重責を果たすべく土俵に上がり続けていた貴乃花でしたが、加齢による衰えとケガがたたって徐々に成績も低迷します。
しかし、2001年の5月場所では一転して復調。
初日から破竹の13連勝で優勝戦線のトップに立ちます。
ところが14日目の武双山戦でひざの半月板を負傷する大けがを負い、さらには千秋楽でも敗れ優勝決定戦にもつれ込みます。
痛みで足を引きずりながらも土俵に上り、優勝決定戦では武蔵丸を豪快な上手投げで倒して奇跡の優勝を達成。
表彰式では、当時の小泉総理から「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!」と名スピーチが飛び出すなど、貴乃花ここにありと思わせるような活躍を見せてくれました。
しかし、この時に負ったひざのケガの代償は大きく、その後7場所連続で休場。
2003年の初場所でなんとか復帰するも、肩を痛めるなど体が悲鳴を上げたことで引退を決意。
引退会見では「非常にすがすがしい気持ち」と話すなど、横綱の重責から解き放たれた姿が印象的でした。
親方としての活躍
4人目の”一代年寄”資格を獲得!
若貴ブームによる相撲人気の再興や、横綱としての十分な実績から、貴乃花は3例目となる一代年寄の権利を取得します。
そして、引退後には所属していた二子山部屋を貴乃花部屋に改めて親方キャリアをスタート。
昔ながらの叩き上げの指導で、貴景勝や、貴源治といった関取を次々と輩出します。
しかし、当時から独特の指導方法により弟子の獲得に苦労したり、部屋つきの親方とのトラブルなどを起こして破門するなど、親方としての実力については疑問符がついていました。
”貴の乱”を起こし、貴乃花一門を結成!理想のために協会の改革を目指す
厳しくも丁寧な指導で弟子を関取に出世させていた貴乃花でしたが、相撲協会内部では度々波乱を起こす存在として知られていました。
その発端となったのは、引退直後に相撲協会の運営方針についてマスコミで意見をしたことによる相撲協会上層部との確執です。
しかし、当時は貴乃花のこうした行動は、古い慣例を打破する改革派として好意的に報道するメディアもあり、「貴の乱」などといわれていました。
実際に、貴乃花に追随する親方も現れ、貴乃花一門として認められるなど徐々に政治力を強めていきました。
日馬富士の暴行事件で協会と対立するも、弟子の不祥事をきっかけに退職へ
2017年に鳥取巡業中に、弟子の貴ノ岩が当時の横綱である日馬富士にカラオケで暴行され、頭を針で縫う大けが負う事件が起こります。
巡業部長である貴乃花は、本来はまず協会に報告すべきでしたが、それをせずに警察署に被害届を出し、また協会からの聴取に応じないなどの独善的な行動を連発。
これにより協会上層部との確執は決定的になり、理事を解任され、その後の理事候補選挙でも落選するなど協会内部で孤立してしまいます。
(協会に反抗的な態度をとる貴乃花に対して嫌悪感を示す親方も少なくありませんでした)
さらに、それに追い打ちをかけるかのように、貴公俊や暴行事件が発覚し、平年寄りに降格。
その後は、協会に引退届を提出し、貴乃花部屋も消滅したことにより事実上の退職となりました。
相撲協会を退職後は、タレント活動や講演会などの活動を精力的に行っています。
貴乃花のキャラクター・逸話
兄・若乃花と若貴ブームを起こすが、確執でも有名
貴乃花といえば、兄である若乃花と同時期に活躍したことで若貴ブームを引き起こしたことが強く記憶されています。
特にお互いが幕内に上がったころなどは仲もよく、女性誌の表紙を飾るなど、角界にとどまらない人気兄弟としても有名でした。
しかし、徐々に二人の間の確執が取りざたされるようになり、現在では完全に絶縁状態に。
理由としては明らかにされておらず、かなり複雑な兄弟関係にあるようです。
不器用で直情的な性格で孤立…しかし理想に燃える男でもあった
貴乃花は、稽古熱心で相撲に真摯な力士として有名でした。
大ケガを負っても横綱の重責を果たそうと土俵に上がった2001年の最後の優勝などはその最たるエピソードといえるでしょう。
しかし、理想とする協会運営の達成に向けての行動は、短絡的・直情的と言わざるを得ない部分があります。
まっすぐに相撲を愛してはいるものの、不器用なあまりに袂を分かってしまいましたが、今でも貴乃花のファンは非常に多く存在します。
またいつか、角界に戻ってきて相撲人気をけん引してほしいものですね。