北勝海の基本情報
四股名 | 北勝海 信芳 (ほくとうみ のぶよし) |
本名 | 保志 信芳 |
生年月日 | 1963/6/22 |
身長 | 181㎝ |
体重 | 151㎏ |
出身地 | 北海道広尾郡 |
出身校 | ― |
所属部屋 | 九重部屋 |
得意技 | 左四つ、押し、寄り切り |
初土俵 | 1979年大阪場所 |
十両昇進 | 1983年大阪場所 |
初入幕 | 1983年9月場所 |
横綱昇進 | 1987年5月場所 |
最終場所 | 1992年大阪場所 |
通算成績 | 465勝206敗109休 |
受賞歴 | 優勝8回 殊勲賞3回 敢闘賞3回 技能賞5回 |
幕内在位 | 52場所 |
北勝海の強さについて
突き押しを極めて横綱に昇進!
北勝海は、80年代に活躍した力士です。
北勝海の得意な取り口は、150kgを超える体重と、大きなお腹を活かした圧力のある突き押しです。
一方でキャリア晩年は、左四つ、寄り切りなどの四つ相撲のバリエーションも加えて様々な相手に対応。
最終的には横綱に昇進し、優勝8回、三賞は11回(うち技能賞は5回)と輝かしい実績を残し、九重部屋の全盛期を支えました。
千代の富士の胸を借りて相乗効果で急成長!
北勝海のキャリアを語る上で、九重部屋の先輩である千代の富士の存在は欠かせません。
北勝海は、千代の富士の付け人として一緒に過ごしたことで急成長を見せました。
四つ相撲が得意な千代の富士と、突き押しを得意とする北勝海の相性は良く、一緒に稽古を積むことでお互いの苦手を克服したことで、相撲の完成度が向上。
最終的には二人とも横綱に昇進し、1989年の名古屋場所では、史上初の同部屋横綱による優勝決定戦を戦いました。
ストイックに猛稽古を欠かさない姿勢が評価され横綱に昇進!
北勝海といえば、猛烈な稽古好きで、真摯に相撲に取り組む力士として有名でした。
北勝海が横綱に昇進する3場所の成績は、36勝9敗で、大関時代の優勝回数も1回と、ライバルの大乃国に成績が劣っており、横綱昇進は微妙といわれていました。
しかし、日ごろの稽古熱心な姿勢と横綱に相応しい品格が評価され、横綱審議委員会に推挙されて横綱に昇進。
横綱昇進後も激しいぶつかり稽古を欠かさず、横綱昇進後は優勝6回、また千代の富士の援護射撃など、九重部屋の全盛期の片翼を担ったのです。
親方としての活躍
八角親方としてキャリアをスタート!関取を何人も輩出!
1992年、ヒザのけがが癒えなかったことで、北勝海は28歳の若さで現役を引退。
引退後は、年寄名跡”八角”を襲名すると、すぐに八角部屋を興します。
稽古熱心だった自分の姿勢を投影するかのように、厳しくも丁寧な指導により、北勝海や海鵬、隠岐の海などの関取を輩出。
また、スカウトも熱心で八角部屋は多くの力士を抱える大所帯に育てます。
信頼の厚さを買われて相撲協会理事長に出世
北勝海は、現役時代から信頼が厚かったためか、相撲協会での出世も順調そのもの。
広報部長として多くのファンを獲得するなどの実績が評価され、役員、理事と順調に出世。
2015年に北の湖が急死したことで、理事長代行を務めて、そのまま相撲協会理事長に就任します。
理事長に就任してからは、兄弟子・千代の富士の急死や、暴力問題、コロナウイルス問題など、かじ取りが難しい問題に直面しながらも、リーダーシップを発揮して相撲協会を引っ張っています。
北勝海のキャラクター・逸話
四股名の「勝」を「と」と読ませる理由
関脇までは本名の保志を名乗っていましたが、大関昇進を機に北勝海に四股名を変更しました。
当初の四股名の候補は、出身の十勝にちなんだ「十」の字が入る予定でした。
しかし「十だと、十勝で止まりそう」ということで、十勝の”勝”を「と」と読ませる「北勝海(ほくとうみ)」で決定。
当時は「勝を”と”と読ませるのは無理がある」という声もありましたが、しっかりと定着し、弟子の北勝富士などに受け継がれています。
ライバルは同郷の大乃国!
北勝海の成長には、同門の先輩・千代の富士の存在と同時に、ライバルである大乃国の存在も非常に大きいものでした。
大乃国は、北勝海と同じ北海道出身で、年も近かったこともありよく比較される存在でした。
実際に、お互いの横綱昇進がかかった時もどちらを横綱に昇進させるかが議論になるほどでした。