80年代最強の横綱で、国民的な人気を誇り、誰からも愛された千代の富士の強さの秘密や、キャリアの苦労話、負けず嫌いなエピソードを紹介します。
千代の富士の基本情報
四股名 | 千代の富士 貢 |
本名 | 秋元 貢 |
生年月日 | 1955/6/1 |
没年月日 | 2016/7/31 |
身長 | 183㎝ |
体重 | 127㎏ |
出身地 | 北海道松前郡 |
出身校 | ― |
所属部屋 | 九重部屋 |
得意技 | 右四つ、上手投げ、寄り切り |
初土俵 | 1970年9月場所 |
十両昇進 | 1974年九州場所 |
初入幕 | 1973年9月場所 |
横綱昇進 | 1981年9月場所 |
最終場所 | 1991年5月場所 |
通算成績 | 807勝253敗144休 |
受賞歴 | 優勝31回 殊勲賞1回 敢闘賞1回 技能賞5回 |
幕内在位 | 81場所 |
千代の富士の強さについて
必殺技”ウルフスペシャル”を武器に80年代最強の横綱に君臨!
千代の富士は”80年代最強”の呼び声高い大横綱です。
千代の富士は相手の前褌を取る四つ相撲を得意としており、特に上手投げが得意で、その独特の上手投げは”ウルフスペシャル”と名付けられました。
ウルフスペシャルは、相手の頭を押さえつけながら投げを打つ方法で、千代の富士の圧倒的な腕力と反射神経により成立する技です。
183㎝、127㎏と体格は力士としては平均よりも小柄な体形でしたが、常人離れした握力と稽古で鍛えた技で、並み居るライバルを粉砕。
最終的には優勝31回・幕内通算1045勝・53連勝と、数々の記録を打ち立てました。
キャリア初期はケガでなかなか昇進できなかった
現在では、歴代でも最強格の横綱として名前が挙がる千代の富士ですが、実はキャリア初期は低迷期にあたります。
幕内に上がったかと思うと、負けが込んで幕下に下がるなど、苦労の日々が続きました。
もともと小柄だったうえに、持ち前の腕力で強引に投げるスタイルに体がついていけず、両肩に脱臼癖がついており、休場したり満足な稽古ができなかったのです。
しかし、不屈の闘志を持つ千代の富士は、徹底的な筋トレで肩回りの筋肉を鍛えるとともに、頭からぶつかるスタイルに変更したことで、覚醒。
1978年に返り入幕を果たすと、わずか3年で横綱まで駆け上がったのです。
相撲界初の国民栄誉賞受賞者になる
土俵では、圧倒的な実力で相手を蹴散らし、土俵外では甘いルックスと豪快なキャラクターで国民的な人気を誇った千代の富士は、1989年に国民栄誉賞を受賞します。
各界から国民栄誉賞を受賞するのは千代の富士が初めてでした。
(その後、60年代の大横綱・大鵬も受賞)
ちょうどこの時に生まれたばかりの娘さんが亡くなって、辛い時期を過ごしていた千代の富士にとっては、明るい話題となったようです。
千代の富士のキャラクター・逸話
精悍なルックスで大人気!”ウルフフィーバー”を起こす
千代の富士の人気の秘密は、土俵内での爽快なパフォーマンスだけでなく、そのルックスにもありました。
力士とは思えないような、体脂肪の少ない筋肉質で締まった肉体に加え、俳優のような精悍な顔立ちをしていたこともあり、若い女性や子供からも人気を集めました。
特に横綱まで一気に駆け上がった1981年の活躍は”ウルフフィーバー”と呼ばれ、大きな話題となり、その後の”千代の富士時代”の始まりの年として記憶されています。
相撲を始めたのは遅かった?
千代の富士は、北海道生まれで、幼少期から運動神経抜群で陸上やバスケなど、どんなスポーツをやらせても優秀な少年でした。
「末はオリンピック選手」と期待されていましたが、相撲はあまり乗り気ではありませんでした。
しかし、中学時代に九重親方に連れられて東京に来たことで、相撲にのめり込みそのまま九重部屋に入門。
そして、後に伝説となるようなサクセスストーリーを歩んだのです。
かなりの負けず嫌い?徹底的に対戦相手を研究する
土俵内では豪快な相撲を取る、横綱らしい横綱だった千代の富士ですが、かなりの負けず嫌いとしても知られています。
一度負けた相手や苦手な相手(琴風など)には、出稽古で相手の部屋まで赴いて研究するなど、勝利にどん欲なエピソードには事欠きません。
こうした努力家な一面もあり、力・技・戦術面でほかの力士の追随を許さなかったことも、数々の記録の要因といえるでしょう。
親方としてのキャリア
一代年寄の権利を得るも、九重親方として部屋を継ぐ!
1991年に、貴花田(のちの貴乃花)、そして貴闘力との一番に敗れ、世代交代の機運が高まり、千代の富士は引退を決意します。
引退時のコメントである「体力の限界」はいまでも有名です。
現役時代の数々の偉業に加えて国民的な人気を誇っていたため、当然のように一代年寄の特権を得ました。
しかし、もともと九重部屋を継ぐことが決まっていたため、九重親方として親方キャリアをスタートさせます。
後進の育成も順調!次々と関取を輩出する
現役時代のネームバリューが先行する形で親方キャリアをスタートさせた千代の富士でしたが、力士の育成も非常に上手でした。
現役時代に苦労し大成した努力型だったということもあって、指導は厳しくも丁寧。
九重部屋からは千代大海や、千代大龍などをはじめ、次々と関取・幕内力士が誕生しました。
育成が好調な一方で、相撲協会の役員までは昇進するものの、政治力の関係でなかなか理事になれずに苦しむなど、土俵外の人間関係には苦労させられていたようです。
在職中ながら無念の死去
2015年に還暦土俵入りを果たし、親方としてキャリア最後のひと花を咲かそう、というときにすい臓がんがみつかります。
がんが発覚してから、入退院を繰り返しますが、2016年に親方として在職中ながらもすい臓がんで無念の死を遂げます。
当時、千代の富士のニュースは大きな話題となり、特に弟弟子で一緒に猛稽古を積んだ八角親方(北勝海)はショックのあまり言葉が出ないほどでした。
多くの著名人からも悲しみのメッセージが寄せられる中、多くの功績をたたえて旭日章叙勲が決定され、華やかな人生の最後にさらに勲章が加わることとなりました。