北の湖の基本情報
四股名 | 北の湖 敏満 |
---|---|
本名 | 小畑 敏満 |
生年月日 | 1953/5/16 |
身長 | 179㎝ |
体重 | 169㎏ |
出身地 | 北海道有珠郡 |
出身校 | ― |
所属部屋 | 三保ヶ関部屋 |
得意技 | 左四つ、寄り切り、上手投げ |
初土俵 | 1967年初場所 |
十両昇進 | 1971年5月場所 |
初入幕 | 1972年初場所 |
横綱昇進 | 1974年9月場所 |
最終場所 | 1985年初場所 |
通算成績 | 804勝247敗107休 |
受賞歴 | 優勝24回 殊勲賞2回 敢闘賞1回 |
幕内在位 | 78場所 |
北の湖の強さについて
王道の四つ相撲を極めて横綱へ
北の湖は70年代から80年代にかけて時代を築き上げた名横綱です。
北の湖の得意な取り口は、パワフルな立ち合いからの力強い四つ相撲でした。
突進力のある立ち合いからかち上げを決めて、一気に相手を土俵外に弾き飛ばすスタイルは「モンスター」「コンピューターつきブルドーザー」と呼ばるほど。
強烈な立ち合いと力強い四つ相撲を可能にしたのは169㎏の体重に加えて、足腰が安定していたことによるものです。
また、力任せの相撲ではなく、巻き替えや突っ張りなど多彩な技で攻め立てる技量も持っており、横綱に相応しい確かな実力の持ち主でした。
このように、圧倒的な実力と勝負強さを持っていたことから「憎たらしいほど強い」と評され、ある種の悪役のような扱いを受けていました。
北の湖が負ければ拍手喝采、逆に北の湖が勝てばため息が漏れるほど、絶対的な存在として君臨していました。
入門前から「怪童」といわれ、スピード出世を遂げる
北の湖は角界入りする前から、有名な存在で「北海道に怪童あり」と噂されるほどの有望選手でした。
三保ヶ関部屋に入門し、1967年に初土俵を踏むと、1972年・18歳の時に初入幕を果たすなど、数々の最年少記録を打ち立てます。
さらにその2年後の関脇時代に初優勝を果たして大関昇進を決めてからは優勝・優勝次点の好成績を連続で残したことで、横綱に昇進。
21歳2か月での横綱昇進はいまだに破られていない最年少記録です。
ライバルの輪島とデッドヒートを繰り広げ、優勝記録を塗り替える
順調に横綱に出世した北の湖でしたが、先に横綱に出征していた輪島が立ちはだかります。
74年から77年にかけては輪湖時代と呼ばれており、二人が優勝を分け合うデッドヒートを繰り広げます。
しかし、78年に6場所中5場所で北の湖が優勝するなど、徐々に北の湖の一強時代が到来。
北の湖の最終的な優勝回数は24回と、ライバルの輪島よりも10回も多く優勝を飾っており、一時代を築き上げました。
両国国技館のこけら落としの場所で花道を飾る
80年代に入ってもなお優勝回数を重ねていた北の湖ですが、ケガからくる衰えが見られるようになります。
ちょうど80年代前半は千代の富士の”ウルフフィーバー”の熱狂の真っ只中にあり、北の湖のキャリアも終焉を迎えようとしていました。
そして、1985年の両国国技館で行われた初場所をもって、大横綱・北の湖は引退します。
実は北の湖は1984年の九州場所を最後に引退するつもりでしたが、当時の春日野理事から強く要請され、両国国技館のこけら落としとなる85年の初場所を引退の場所としたのです。
親方としての活躍
一代年寄として北の湖部屋を興し、数々の名力士を育てる
70年代・80年代と二つの年代で活躍し、角界人気をけん引した北の湖は、一代年寄として北の湖部屋を興します。
同じく一代年寄として部屋を興していた大鵬の大鵬部屋に近い場所に部屋を構えたため、清澄白河のある通りは横綱通りとして親しまれていました。
部屋の親方としての指導力も優れていた北の湖は次々と弟子を関取に育て上げ、指導者としても一流の実力を発揮していました。
相撲協会理事長に昇進し、角界をリード!
引退してもなお、角界での人望・信頼が厚かった北の湖は、親方としても順調に出世し2002年には理事長に就任。
そして、理事長時代にはファンサービスの強化などの施策を実施し、相撲人気の向上に尽力しました。
しかし、2007年に時津風部屋の力士暴行死事件や朝青龍の奇行、力士の大麻事件などでガバナンスを疑問視され、理事長の座を退きます。
しかし、2012年の理事選で再選を果たしました。
内臓疾患により、理事長在位中に逝去
理事長再選後は、相撲人気の回復に奔走していた北の湖でしたが、病魔に侵されていた体が悲鳴を上げ、2015年の九州場所中に死去。
現役理事長が在位中に亡くなるのは史上初の出来事でした。
死後は生前の功績が評価され、日本政府から叙勲され、華やかな人生に花を添えました。
北の湖のエピソード
コワモテだが、実は優しい性格の持ち主
北の湖は一見すると、怖い顔をしており、また土俵上でも圧倒的な実力から、コワモテのように思われます。
しかし、その性格はとても優しく穏やかです。
妻には「弟子は使用人じゃないんだから私用で使うな」と弟子を大事にしたり、新弟子検査で頭にシリコンを入れて何とかパスしようとする舞の海を気遣うなど、人柄も評価が高い人物でした。
死後も、北の湖を悪く言う人はおらず、人格も実力も備えた”本物の横綱”の一人だったといえるでしょう。